2009年05月25日 15:27
以前は、「信仰心」て自分からいちばん遠いところにあるんじゃないかと漠然と考えていました。
どんな宗教も信じないんじゃないかと。
でも最近はそういう考えにすこし疑問をなげかけるようになったというか、自分の中でも「ま、そんなにかたくなにならなくてもいっか」みたいなアバウト感がでてきました。
お墓も葬式もいらないし、そうした諸々の死後のことにはあまり興味がないのはいまもおなじですが、心の幹になりそうな、「いまの人生をどう生きるか」とか「どうやって人生をたたむか」みたいな価値観には、すこしだけ光がさしたような気がします。
いまはまだ夫もいるし家族や友人もいてくれますが、だんだん年をとってきて周りにだれもいなくなったときは、おそらく信仰心のような何かの「よすが」がほしくなるだろうな、とか。
共通の価値観をわけあえるひとたちを身近に感じたくなるんだろうな、とか。
たぶんそれが、わたしの中では「信仰」にいちばん近いものなんだろうと思います。
いまはまだ、ほんとうの孤独を知らないからあえて行動に移さなくても生きていけるけど。
でもきっと、セーフティネットのような役割の宗教や信仰心が存在するかぎりは、ほんとうの孤独なんてないんでしょうね。
それが「救い」ってことだと思うので。
祖父の法事に出てみて、そんなことをふと考えました。
どんな宗教も信じないんじゃないかと。
でも最近はそういう考えにすこし疑問をなげかけるようになったというか、自分の中でも「ま、そんなにかたくなにならなくてもいっか」みたいなアバウト感がでてきました。
お墓も葬式もいらないし、そうした諸々の死後のことにはあまり興味がないのはいまもおなじですが、心の幹になりそうな、「いまの人生をどう生きるか」とか「どうやって人生をたたむか」みたいな価値観には、すこしだけ光がさしたような気がします。
いまはまだ夫もいるし家族や友人もいてくれますが、だんだん年をとってきて周りにだれもいなくなったときは、おそらく信仰心のような何かの「よすが」がほしくなるだろうな、とか。
共通の価値観をわけあえるひとたちを身近に感じたくなるんだろうな、とか。
たぶんそれが、わたしの中では「信仰」にいちばん近いものなんだろうと思います。
いまはまだ、ほんとうの孤独を知らないからあえて行動に移さなくても生きていけるけど。
でもきっと、セーフティネットのような役割の宗教や信仰心が存在するかぎりは、ほんとうの孤独なんてないんでしょうね。
それが「救い」ってことだと思うので。
祖父の法事に出てみて、そんなことをふと考えました。
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